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名古屋地方裁判所 昭和61年(ワ)3524号 判決

主文

一  被告は原告に対し、金三五〇万〇五八三円及びこれに対する昭和六一年一一月六日から支払済みまで年六分の割合による金員を払え。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用はこれを五分し、その一を原告の、その余を被告の負担とする。

四  この判決は第一項に限り仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は原告に対し、金三五一万五二九一円及びこれに対する昭和六一年一一月六日から支払済みまで年六分の割合による金員を支払え。

2  被告は原告に対し、金八〇万六五四〇円及びこれに対する昭和六二年一〇月一〇日から支払済みまで年六分の割合による金員を支払え。

3  訴訟費用は被告の負担とする。

4  1項、2項につき仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二  当事者の主張

一  退職金請求について

1  請求原因

(一) 原告は、昭和三七年四月、広告業を営む被告会社に雇用され、二三年一一か月間在職した後、昭和六一年二月末日退職した。

(二) 被告会社の就業規則二六条には、勤続三年以上の従業員が退職した場合には退職金を支給する旨規定されており、その細則である退職手当支給規定の四条によれば、退職金の支給額は当該従業員の退職時の基準内賃金に勤続期間によって定まる支給率を乗じて算出することとされている。そして、原告の退職時における基準内賃金は、基本給一五万六五〇〇円、役付手当二万円、合計一七万六五〇〇円であり、同規定によれば、勤続二三年一一か月の場合の支給率は一九・九一六六六であるから、原告は被告会社に対し、三五一万五二九一円の退職金請求権を取得した。

(三) よって、原告は被告に対し、退職金三五一万五二九一円及びこれに対する履行期の後である昭和六一年一一月六日から支払済みまで商事法定利率年六分の割合による遅延損害金の支払を求める。

2  請求原因に対する答弁及び被告の抗弁等

(一) 被告が広告業を営む会社であること、原告が昭和三七年に被告会社に雇用され、昭和六一年二月末日に退職したことは認める。ただし、原告が雇用されたのは正確には昭和三七年四月ではなく同年五月であるから、勤続年数は二三年一〇か月である。

(二) 被告会社の就業規則に原告主張の定めがあること、退職手当支給規定四条が退職金算出に関する原則を定めていること、退職時における原告の基準内賃金が原告主張のとおりであることは認めるが、右退職手当支給規定はその総体によって退職金を支払う場合と支払わない場合を定めているのであって、単純に退職時の基準内賃金に所定の支給率を乗じた額を支払うとしているものではない。

(三) 右退職手当支給規定六条本文後段は、退職後六か月以内に同業他社に就職した場合は退職手当を支給しない旨定めている(以下これを「本件不支給条項」という。)ところ、原告は、被告会社を退職した直後から「中央アド企画」又は「中日プラン社」の名称で広告代理業を自営し、又は広告代理業を営む「株式会社メディアマンエージェンシー」に就職した。原告の右行為は本件不支給条項に該当し、したがって、原告は退職金請求権を取得し得ない。

(四) 退職金請求権の放棄

原告は退職に当たって、被告会社の担当者から本件不支給条項の存在、右条項に該当しないことが確定した場合に支給されるべき退職金の額は三五〇万〇五八五円であることの説明を受けたが、その際原告は、その程度の金額ならば、退職金は要らないと述べ、退職金請求権を放棄する意思表示をした。

3  被告の抗弁等に対する原告の答弁及び主張

(一) 本件不支給条項が存在すること、原告が退職後六か月以内に「中央アド企画」の名称で広告代理業を始め、間もなくその名称を「中日プラン社」と変更したことは認める(「株式会社メディアマンエージェンシー」は昭和六一年七、八月ころ友人から一緒にやろうと誘われ、一時共同でやった会社であるが、二か月位で会社自体が消滅した。)。

(二) しかしながら、本件不支給条項は無効である。

(1) 退職金は、時代を遡れば恩恵的ないし長期勤続に対する功労報償的性格のものであったかもしれないが、退職金制度が普及し、社会的意識として退職金制度の有無及び退職金の額が労働条件の重要な要素と考えられるようになった今日においては、労働協約、就業規則によって支払条件が定められた退職金の法的性質は賃金の後払に他ならない。

被告会社の退職手当支給規定において、基準内賃金が退職金算定の基礎とされていること、支給乗率は勤続年数に正比例的に増加していることは、被告会社における退職金も賃金後払の性質を有することの証左である。

(2) 前記退職手当支給規定四条によって算出される退職金債権は、退職時において直ちに発生すると解すべきであり、このことは被告会社の退職手当支給規定全体の構造から明らかであるばかりでなく、退職金の法的性質が賃金の後払であることからも必然的に導き出される結論である。しかるに、本件不支給条項は、退職後に生じた事由によって退職金の支給を制限するものであり、これは、前記退職手当支給規定全体の構造及び退職金の法的性質を無視するものであって違法な規定というべきである。

(3) 本件不支給条項は、たとえ六か月間であっても、労働者が退職した後についてまで職業選択の自由を規制するものである点及び賃金である退職金を支払わないという手段を用いる点において公序良俗に反するものであり、民法九〇条により無効である。

(4) 前記退職手当支給規定六条但書は、本件不支給条項に該当する場合でも、取締役会の審議により退職金を支給することがある旨定めてはいるが、これでは退職金支給の有無又は支給額が専ら被告会社の裁量によって決定されることになり、このような定め方は労働基準法一五条一項所定の労働条件明示義務に違反するというべきであるから、退職手当支給規定六条は全体として無効である。

(三) 仮に、本件不支給条項が無効でないとしても、被告会社は原告を退職に追い込んだものであるから、原告の退職は会社都合による解職又は解雇に準じて考えられるべきであり、本件不支給条項の適用はない。すなわち、

(1) 原告は昭和六〇年四月一日、被告会社岡崎支店長代理兼務を口頭で命ぜられたが、同年九月一日付で更に神谷和美が同支店長代理に発令されたところから、右両発令の趣旨に疑問を抱き、同年九月中旬以降岡崎支店に行かなかったところ、同年一一月二〇日になって岡崎支店長代理を解かれた。

(2) 被告会社は、倒産した会社と関連する者との取引を内規によって禁止していたのであるが、原告は、訴外山口の依頼により右内規に反して同人と取引を行ったところ、同人から受領した手形が不渡りになった。このことにつき、被告会社の大嶽専務は、何回にもわたって原告を含む部長らを招集し、同僚の面前で執拗に原告の責任を追及し、あるいは原告のいない席で他の部長らに対し原告は辞表を提出すべきであることの同調を求めるなどして、原告に対し事実上退職を迫った。

原告は、右の事態にたまらず、自分で資金を工面して代金の納入があったように取り繕ったところ、このことで更に非難されることになった。

(3) 以上のことにつき、原告は同年一一月に同年一二月以降減給三か月の懲戒処分を受けた。右懲戒の内容につき、原告は基準内賃金の一〇分の一がカットされると理解していたが、実際は後記のとおり、奨励金、各賞、賞与まで大幅カットされ、越年もままならず、母と妻、子供三人の計六人の家族の生活を維持するのも困難な状態になった。

(4) 原告の行為につきある程度の懲戒はやむをえないとしても、奨励金等の大幅カットは後記のとおり違法なものであり、報復ともいうべき過剰な制裁である。このような事情に照らすと、原告は自己の都合により自主的に退職したものではなく、被告会社によって退職に追い込まれたとみるべきである。

(四) 原告が退職金請求権を放棄した事実は否認する。

4  原告の主張に対する被告の反論

(一) 退職金の本質は在職中の功労に対する報償であり、賃金の後払いではない。仮に、賃金後払の性質が併存する場合においてもその根本的性質は功労報償であり、したがって、使用者は、一般に、退職金支給制度を設けるか否かの自由を有するものであり、それを設ける場合においても、どのような支給基準を定めるかは基本的に使用者の裁量によって決定することができるのである。

このことは、懲戒解雇の場合は退職金を支給しないということが、一般に承認されていることからも明らかである。

(二) 被告会社の退職手当支給規定五条は、在職中特に功労顕著な者に対しては特別功労金を支給する旨を定め、同規定六条但書には本件不支給条項があり、その他被告会社の退職手当支給規定においては、勤続年数の増加に従って退職金の支給率が増加すること、定年退職の場合は退職金の額が他の場合の一・二倍となること、自己都合退職と会社都合退職とでは後者が有利であることなどが定められているが、これらはいずれも退職金の根本的性質が功労に対する報償であることの表れである。

(三) このように退職金の根本的性質は在職中の功労に対する報償であるから、使用者はその必要に応じて退職金の支給条件を定めることができるというべきところ、本件不支給条項は、以下の合理的必要に基づいて置かれたものである。

すなわち、被告会社のような中小規模の広告代理業においては、営業活動は従業員と顧客の個人的な結びつきに発展しやすく、従業員が同業他社に就職したり、退職して広告代理業を自営したりすると、それに伴って顧客も右就職先などに移ってしまう傾向が著しい。そうなった場合、被告会社が被る不利益は莫大であり、したがって、当該従業員の在職中の功労に対する評価も滅却されることになる。

現に被告会社は、原告が退職後に直接取引により被告会社から顧客を奪ったため莫大な不利益を受けている。すなわち、被告会社においては、原告が在職中担当した顧客の売上は原告退職後大幅に減少しているし、原告の退職を境として取引が全くなくなった顧客も多数ある。被告会社の損害は、年間八三四六万円ないし九三〇九万円にもなり、これが半永久的に続くのである。

(四) 本件不支給条項は、間接的に従業員の退職後の競業行為に対しある程度の規制を加えることになるが、競業行為に対する規制は、在職中に限って許されると解すべきではなく、退職後においても合理的な限度においては、在職中と同様に許されるべきである。

右規制の合理性をみるに、規制の目的が合理性を有することは、前記のとおり被告会社が原告の競業行為により莫大な不利益を受けていることから明らかであり、規制の方法については退職金を与えないという間接的なものであり、規制の期間も退職後六か月以内に限られているなど、極めて穏やかなものに留まるから、右の規制が合理的な範囲に留まることは明らかであり、公序良俗に反するとの非難は失当である。

(五) 被告会社が原告を退職に追い込んだとの点は否認する。

仮に、原告が被告会社によって退職に追い込まれたと考えていたとすれば、それは原告の誤解である。そもそも原告は、会社において禁止されている倒産した会社と関連する者との取引を行い、また岡崎支店長代理を命ぜられたにもかかわらず同支店へ出勤しないなど、きわめて勤務状態が不良であったため、被告会社はこれを懲戒処分の理由とし、また、賞与、奨励金の支給の有無や金額の算定に際して考慮した。原告の採った行動が被告会社にとってきわめて不都合なものであったことからすれば、これは当然の措置である。

二  未払賃金請求について

1  請求原因

(一) 退職金請求の請求原因(一)と同じ。

(二) 原告が被告会社に在職中支払われていた賃金には、毎月支給される給与と毎年六月及び一二月に支払われる賞与とがあったが、昭和六〇年四月から同年一〇月までの原告の給与の明細は別紙(一)の表のとおりであり、昭和五九年一二月の原告の賞与の額は七〇万五〇〇〇円であった。

なお、原告は昭和五九年四月一日以降第二営業本部本部長付部長の地位にあった。

(三) ところで、原告は昭和六〇年一二月、部長から部長代理に降格されるとともに、懲戒処分として昭和六〇年一二月から三か月間本来支給されるべき賃金の一〇分の一を減ずる旨の減給処分を受けた。

右降格及び減給処分の結果、原告に支払われる賃金の額がある程度減少するのはやむを得ないとしても、被告会社は是認し得る限度を超えて、本来支払われるべき賃金を支払わない。以下、この点を分説する。

(四) 右懲戒処分は同年一二月分からの減給であるから、一一月分の給与について支給を減ずる根拠はないにもかかわらず、被告会社は一一月分の給与につき奨励金部分の全額を支給しない。

もっとも、被告会社は奨励金の支給基準を明確にしていない(この点は労働基準法一五条に違反する。)ので、原告は支給されるべき奨励金の額を確定的には主張し得ない。しかし、別紙(一)の表記載の昭和六〇年四月から同年一〇月までの支給実績から一か月の平均支給額を求めると一五万七二〇〇円になるから、同年一一月分給与についても少なくとも一五万七二〇〇円の奨励金が支払われるべきである。

(五) 原告は昭和五九年一二月に賞与として七〇万五〇〇〇円の支給を受けているから、昭和六〇年一二月にも同額の賞与が本来支給されるべきであるが、前記減給処分があるのでその一〇分の一の減額を是認するとしても、六三万四五〇〇円が支給されるべきである。しかるに、昭和六〇年一二月実際に支給された賞与の額は三〇万円に過ぎなかったから、残額三三万四五〇〇円が更に支給されるべきである。

(六) 被告会社が原告に対し実際に支給した昭和六〇年一二月分から昭和六一年二月分までの給与の明細は別紙(二)の表のとおりである。

ところで、部長から部長代理に降格されたことにより役付手当が五〇〇〇円減額されることを是認するとすれば、減給の前提となる給与の額は、昭和六〇年四月から同年一〇月までの給与支給実績に照らし四八万八二〇〇円(奨励金一五万七二〇〇円を含む。)となり、右金額から一〇分の一を控除した四三万九三八〇円が右三か月間に毎月支給されるべき給与の額となる。

しかるに、実際の支払額は、別紙(二)の表記載のとおりであり、昭和六〇年一二月分につき一〇万〇一八〇円、昭和六一年一月分につき一三万一七八〇円、同年二月分につき一〇万八九八〇円がそれぞれ不足するから、合計三四万〇九四〇円が更に支給されるべきである。

(七) よって、原告は被告に対し、未払賃金として、右(四)ないし(六)の合計額八三万二六四〇円から後に計算違いがあったとして追加払いされた金額を差し引いた八〇万六五四〇円及びこれに対する履行期の後である昭和六二年一〇月一〇日から支払済みまで商事法定利率年六分の割合による遅延損害金の支払を求める。

(八) 仮に、原告において賞与及び奨励金の額を明示することができないところから未払賃金請求権の存在が立証されないというのであれば、被告会社の昭和六〇年一一月の奨励金の全部カット、同年一二月から昭和六一年二月までの一〇分の一以上に及ぶ賃金減額行為は、就業規則及び労働基準法九一条に違反する点において違法であり、民法七〇九条の不法行為を構成するものであるから、原告は被告に対し、不法行為に基づく損害賠償として、前項(七)と同額の金員を請求する(前項(四)ないし(六)の未払賃金額は損害算定の過程の数字として主張する。)。

2  請求原因に対する答弁

(一) 退職金請求の請求原因(一)に対する答弁と同じ。

(二) 被告会社が原告に対しその在職中毎月賃金を支払っていたこと、毎年六月及び一二月に賞与を支払っていたこと、原告が昭和五九年四月一日以降第二営業本部本部長付部長の地位にあったこと、原告が昭和六〇年一二月から部長代理に降格されたこと、被告会社が原告に対し昭和六〇年一二月から三か月間支給されるべき賃金の一〇分の一を減ずる減給処分をしたことは認める。

(三) 被告会社が原告に支払った昭和六〇年四月から同年一〇月までの賃金の明細が別紙(一)の表のとおりであることについては、奨励金に関する部分を除いて認める。すなわち、奨励金は被告会社の賃金体系上賃金ではなく、行賞としての賞金であるから、それは賃金として支払われたものではない。

被告会社が原告に支払った昭和五九年一二月及び昭和六〇年一二月の賞与の額が原告主張のとおりであることは認める。賞与の額は、その都度査定によって定まるものであるから、減給の制限の対象とならない。

(四) 被告会社が原告に対し昭和六〇年一一月に奨励金を支給しなかったことは認める。前記のとおり、奨励金は賃金ではないから従業員が当然にその請求権を取得するものではなく、また支給基準が明示されていなくても労働基準法に違反するものではない。

(五) 予備的請求に関する主張は争う。

第三  証拠関係〈省略〉

理由

一  被告が広告業を営む会社であること、原告が昭和三七年四、五月ころに被告会社に雇用され、昭和六一年二月末日に被告会社を退職したことは当事者間に争いがない。

〈証拠〉によれば、原告が雇用されたのは昭和三七年五月七日であることが認められ、右認定を左右するに足りる証拠はない。

二  退職金請求について

1  被告会社の就業規則二六条に、勤続三年以上の従業員が退職した場合には退職金を支給する旨規定されていること、その細則として退職手当支給規定(以下「本件支給規定」という。)があること、本件支給規定中に本件不支給条項があることは当事者間に争いがない。

2  〈証拠〉によれば、本件支給規定が定める退職金支給額の算出方法は概ね以下のとおりであることが認められる。

(一)  原則として、退職時の基準内賃金に勤続年数別の支給率を乗じて算出するが、更に減率を乗ずる場合がある。

(二)  支給率は、勤続三年の場合を二・五とし、勤続年数が一年増えるごとに、一〇年までは〇・五を、一一年から三〇年までは一を、三〇年を超えるときは、〇・三を加える。

(三)  減率は勤続二〇年以下の者の自己都合退職(ただし、結婚、不具・廃疾等の場合は除外される。)につき適用されるもので、四年未満の退職の場合が三〇パーセント減、以下勤続年数が長くなるにつれて減率は減少し、勤続二〇年の場合は三パーセント減になる。

(四)  定年退職の場合は、基準内賃金を一・二倍にして算出する。

(五)  在職中の功労が特に顕著な者には特別功労金(金額は予め定まっていない。)が附加されることがある。

(六)  懲戒解雇の場合及び退職後六か月以内に同業他社に就職した場合には退職金は支給されない(右の後段が本件不支給条項)。ただし、事情によっては、取締役会の決議によって金額を定め、支給されることがある。

3  以上によれば、被告会社において退職金制度の存在は就業規則(その細則として支給規定を含む。)を介して労働契約の内容になっていることは明らかであり、支給額は基本的に基準内賃金と勤続年数に従って定まること、支給条件及び支給額は明確であり裁量の余地は殆どないことに照らすと、原告と被告会社との労働契約における退職金の基本的性格は労働の対償であり、労働基準法にいう賃金の一種であるといわなければならない。したがって、本件退職金については、原則的に、労働基準法の賃金に関する規制が及ぶと解される。

被告は退職金の本質は在職中の功労に対する報償であると主張する。たしかに、沿革的にみると退職金制度は使用者による任意的、恩恵的な給付を基礎として発達したものであり、現在においても使用者は退職金制度を設けることを強制されているわけではない。しかし、ひとたび就業規則を介して退職金制度の存在が労働契約の内容となり、使用者の退職金支払義務が明確化し、労働者にとってそれが重要な労働条件として意識されるようになると、退職金の基本的性質は労働の対償に転化するといわざるを得ない。

もちろん、その場合でも、退職時までは具体的請求権として成立しないという特質から、退職金には通常の賃金と同一に論じられない部分があり、また前記の沿革的特質に照らし、労働の対償たる基本的性質の否定とならない限度において、退職金制度に功労報償的性格を付与することを全面的に否定するのは相当でない。しかし、退職金制度を設けるか否かは使用者の自由であるということから、当然に使用者が設定した基準によってのみ具体的権利が発生すると解することはできない。

4  原告が退職後六か月以内に広告代理業を自営したことは当事者間に争いがない。そして、本件不支給条項は、退職後六か月間同業他社へ就職しないことを退職金債権発生の停止条件とする(同業の自営もこれに準じて扱う。)ものと解されるところ、右条件不成就の場合退職金債権が発生しないとすることは、退職後の事情によって退職時までの労働の対償である退職金を労働者に取得させないとするものであり、実質的に労働基準法二四条の定める賃金全額払の原則に反する内容を定めているといわざるを得ない。

賃金全額払の原則は、労働契約上の労働者の基本的権利に関するものであり、安易に例外を認められるべきではないから、本件不支給条項は、右原則に反する定めをするにつき合理的な理由が認められない限り、その効力は否定されるべきである。

被告は、退職後六か月以内に同業他社へ就職することは、在職中の功労を滅却させる旨主張するが、功労に対する評価は支給額算定の方法の中で定型的に処理されているのであり、退職金の基本的性質を賃金と解する以上、改めて退職金債権の発生を功労の有無にかからせることが合理的であるとは到底解しがたい。

本件不支給条項の定めによれば、その意図とするところは、主として、被告会社を退職した者が退職後六か月間同業他社へ就職しないよう牽制することにあると認められる。

〈証拠〉によれば、広告代理業特に被告会社のような中小の業者においては、営業社員と顧客との個人的なつながりが密接であるため、営業社員が退職して同業他社に就職し、あるいは自ら広告代理業を営む場合には、従前の顧客が当該社員と共に移動する傾向があり、その場合会社が被る営業上の不利益は少なくないことが認められる。また、〈証拠〉によれば、退職した社員が従前の顧客を吸引し得るのは、当該社員の個人的資質、能力のみによるとはいえず、従前の会社において会社の力を背景に営業活動をしたことの成果をも利用する面があると認められるから、これを禁ずる趣旨で、従前の勤務の影響力が強いと認められる一定期間、退職社員に対し競業避止義務を課すこと自体は必ずしも不合理とはいえない。

しかしながら、実効性ある競業禁止を実現させるために、基本的性格が賃金であると認められる退職金の発生を全面的に右競業避止にかからせることは、退職金の右基本的性格及び退職金には退職労働者の退職直後の生活を保証する役割が期待されていること、更に競業禁止は職業選択の自由という基本的自由に関わる問題であることに鑑み、原則として、許されないと解すべきである。

もっとも、退職金の不発生が一部に留まる場合又は競業行為が不公正な方法によってされた場合などにおいて、この種の不支給条項の効力を承認するのを相当とする場合もなくはないと解されるが、本件全証拠によるも、本件不支給条項を有効と解することを相当とするに足りる事情は認められず、かえって、原告本人尋問の結果によれば、事の発端は原告の行動に問題があったとはいえ、後記未払賃金請求に関する認定のとおり、原告は被告会社から、降格、減給処分、奨励金・賞与の低額査定など、違法とはいえないものの、かなり苛酷な処遇を受けたことによって経済的に困窮し、かつ、心理的にも追い詰められた結果、退職を決心したものであること、原告の勤続年数は二三年余に及び、退職後も広告業界以外に適当な職業を見出すことが困難な状況にあったため、自己と家族の生活のため従前の経験を生かして広告代理業の自営を始めたものであることが認められる。

したがって、本件不支給条項は、原告と被告会社との間の労働契約を規制する効力を有さず、原告は本件支給規定の原則に従い退職金請求権を取得したものというべきである。

5  被告は、原告が退職金請求権を放棄した旨主張するが、〈証拠〉によっても、原告が退職金請求権を放棄する意思を明確に表示したものとは認めがたく他に右放棄の事実を認めるに足りる証拠はない。

6  原告の退職時における基準内賃金が一七万六五〇〇円であることは当事者間に争いがない。

前記入社時期及び退職時期によれば、原告の勤続年数は二三年一〇か月余になるが、前記乙第一号証によれば、この場合の支給率は一九・八三三三三であることが認められ、二〇年を超える勤続であるから、減率の適用はない。

そこで、右基準内賃金額に右支給率を乗ずると三五〇万〇五八三円となり、原告は退職時に右金額の退職金請求権を取得したというべきである。

三  未払賃金請求について

1  〈証拠〉によれば、(一)被告会社の就業規則はその第四章において「給与」の標題のもとに、賃金の種別を定め、賃金は毎月二五日に月給として支給する旨及び毎月の賃金の外に六月と一二月には業績と勤務成績等を勘案して賞与を支給する旨を規定しているが、その外に第六章において「賞罰および損害賠償」の標題のもとに「賞金授与」を含む行賞の制度を設けていること、(二)従業員に交付される給与支給明細書の奨励金の欄に表示される金額は右行賞として授与される賞金の額であること(以下右賞金を「奨励金」という。)、(三)奨励金の支給基準は、従業員に対して明示されていないことはもとより、内部的にも明確な基準はなく、営業社員についていえば特定の雑誌及び新聞の広告欄の契約をどれだけ取ったか、テレビ、ラジオのコマーシャルについて放映前に入金されたものがどれだけあったか等が慣行的に重要な判断要素とされ、最終的には社長によって勤務態度等をも考慮して裁量的に査定されるものであること、(四)奨励金の査定は月単位で行われ、毎月二〇日に支給されること、(五)原告が昭和六〇年四月から一〇月までの間に被告会社から奨励金として支給された金額は別紙(一)の表の奨励金欄記載の金額(ただし、五月分は二一万六一〇〇円、六月分は一一万九二〇〇円)であり、就業規則上の賃金として支給された金額は同表の支給総額欄記載の金額から奨励金の額を控除した額であること、以上の事実を認めることができる。

そして、右に認定したところによれば、奨励金は、被告会社の賃金体系上は賃金とは別に行賞として扱われているが、それが労働の対償としての性質を有する金員であることは明らかであり、労働基準法上の賃金とみるのが相当である。

2  原告は従前被告会社第二営業本部本部長付部長の地位にあったが、昭和六〇年一一、一二月ころ同部長代理に降格されたこと、同年一一月には原告に対し奨励金の名目による金員は支給されなかったこと、そのころ原告は同年一二月から翌六一年二月までの間に支払われるべき賃金の一〇分の一を減ずる旨の減給処分を受けたこと、原告は右期間中別紙(二)の表記載の明細どおりの名目で同表支給総額欄記載の金員の支給を受けたことは、いずれも当事者間に争いがない。

また、弁論の全趣旨によれば、被告会社は、本訴係属の後、右期間中の賃金等の算出過程に違算があったとして各月につき八七〇〇円宛、計二万六一〇〇円を原告に追加支払したことが認められる。

3  以上の事実と〈証拠〉によれば、被告会社は原告に対し、前記減給処分に基づき、昭和六〇年一二月から翌六一年二月までの間に支払われるべき賃金(就業規則にいう賃金)につきその一〇分の一を減額して支給し、奨励金については別途査定して昭和六〇年一一月分は不支給とし、同年一二月分から翌年二月分までは別紙(二)の表の奨励金欄記載のとおり支給したものであることが認められる。

4  原告は、奨励金は賃金であることを理由に毎月支給されるべき金額の一〇分の一を超えて減額することは労働基準法九一条に違反する旨主張する。

たしかに、被告会社における奨励金は労働基準法にいう賃金の性質を有すること前記のとおりであり、前記認定事実及び弁論の全趣旨によれば、奨励金は、金額に多少の増減はあっても従前殆ど例外なく毎月支払われてきたことが窺われるが、そのことによってもなお、被告会社が奨励金についての毎月の査定を行う前において、各従業員が、事実上の期待以上に、具体的な奨励金請求権を取得すると解することはできない。

労働基準法九一条は一賃金支払期における賃金の総額が確定していることを前提としてその減額を規制するものであるから、支給されるべき金額が確定していない奨励金請求権につきこれを適用する余地はない。

5  原告の昭和六〇年一一月から昭和六一年二月までの未払賃金請求は、結局、この期間における奨励金請求権が具体的賃金請求権として成立していることを前提として、その支払を求めることに帰するところ、右の前提を採用しがたいこと右のとおりであるから、原告の右請求は理由がない。

6  原告が被告会社から昭和五九年一二月に支給された賞与の額が七〇万五〇〇〇円であり、昭和六〇年一二月のそれが三〇万円であったことは当事者間に争いがない。

原告は、ここでも賞与が労働の対償すなわち賃金であることを理由に、前年度の金額の一〇分の一を超えて制裁的な減額をすることは、労働基準法九一条に違反する旨主張する。

しかしながら、賞与についても奨励金と同じく、使用者の査定により金額が確定するまでは具体的権利として成立していないと解されるから、労働基準法九一条を適用する余地はなく、また、査定額を超えてこれを請求し得る根拠もない。

したがって、原告の昭和六〇年一二月分賞与残額の支払を求める請求は理由がない。

四  予備的請求としての損害賠償請求について

原告は、被告会社の奨励金不支給、賃金減額行為等は被告会社の就業規則及び労働基準法九一条に違反する旨主張するが、前記認定したところに照らし、被告会社が行った減給処分及び奨励金不支給又は減額に就業規則に反する点のないことは明らかであり、また、奨励金及び賞与の支給につき労働基準法九一条の適用はないと解すべきこと前記のとおりであるから、原告の右主張は採用することができない。したがって、原告の右予備的請求も理由がない。

五  結論

そうすると、原告の本件退職金請求は、金三五〇万〇五八三円及びこれに対する履行期後である昭和六一年一一月六日から支払済みまで商事法定利率年六分の割合による遅延損害金の支払を求める部分につき理由があるから右の限度でこれを認容し、その余は理由がないからこれを棄却し、未払賃金請求及び予備的損害賠償請求はすべて理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条を、仮執行の宣言につき同法一九六条をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 清水信之 裁判官 出口尚明は退官のため、裁判官 菊池則明は転補のため、署名捺印することができない。裁判長裁判官 清水信之)

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